2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」          入江幸男
               第一回講義2007/10/03

到達目標
「ドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)の概要と、その思想史上の位置づけの理解を通して、西洋近代哲学史についての一定の見通しを得ることを目標とします。」
授業概況
「フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思想をその展開過程を含めて紹介します。
これについて、コウギノートだけでなく、原点の翻訳が有名は哲学史教科書の参照をもとめて、進めてゆきます。その際、同時に、近代思想史におけるドイツ観念論の位置づけを検討し、またその現代的な意義も探りながら、哲学の入門にもなるように講義したいと考えます。
毎回の小レポートで講義のまとめや、下調べを行ってもらう予定です。」

 参考文献
ヘーゲル『哲学史』
シェリング『近世哲学史』
クローナー『ドイツ観念論の発展』理想社
広松渉編『講座 ドイツ観念論』全6巻、弘文堂
大橋良介編『叢書 ドイツ観念論との対話』全4巻、ミネルヴァ書房
大橋良介編『ドイツ観念論を学ぶ人のために』ミネルヴァ書房
加藤尚武編『哲学の歴史 第7巻、理性の劇場』中央公論社
久保陽一『ドイツ観念論への招待』放送大学教材
入江幸男『ドイツ観念論の実践哲学研究』弘文堂
(個別の哲学者についての参考文献は、別途に紹介します。)

              §1 哲学史の方法について
 
A ローティ「哲学史の記述法  四つのジャンル」
(ローティ著『連帯と自由の哲学』富田恭彦訳、岩波書店)
ここでローティは、哲学史の四つの記述方法をつぎのように区別する。
 
1、「合理的再構成」
「過去の哲学者を、意見を交換することのできる同僚として扱おうとする。」
しかしこれは、「自分達の問題や語彙を過去の人々に押し付けて、彼らを対話の相手にするという時代錯誤を犯す」106ことになる。
(ベネットが、イギリス経験論に対しておこない、ストローソンがカントに対して行ったこと)
 
2、「歴史的再構成」
「過去の哲学者の誤謬を曖昧な当時の文みゃにおいて、それらをさほど馬鹿げたものに見えないように」解釈する。106
クェンティン・スキナーが定式化した、つぎのような制約にしたがわなければならない。
「行為者当人が、自分の言おうとしたことや行ったことの正しい記述と認める気になれないものを、当人の言おうとしたことや行ったこととして、言い立てることはできない。」(108
スキナー的な歴史的再構成
 (ジョン・ダンがロックにたいして行ない、シュニーウィンドがシジウィックに対して行ったこと。)
 
3、「精神史」(精神史的物語)
精神史は、問題解決のレベルよりも、問題構成のレベルにおいて、仕事をする。それは過去の偉大な哲学者の解答や解決がどの点において現代の哲学者のそれと一致するのか)を問うのではなく、
「なぜ人は、・・・・という問いを自分の思想の中心にすえるべきであったのか」
「なぜひとは、・・・・という問題を真剣にとりあげたのか」       
(ヘーゲル、ハイデガー、ライヒェンバッハ、フーコー、ブルーメンベルク、マッキンタイヤーがおこなったこと。120
(偉大な哲学者の標準リストを作成する。)
 
4、学説史(doxography
「学説史とは、<ある問題構成をそれとは無関係に作成された標準リストに押し付けようとする試み>あるいはその反対に<ある標準リストをそれとは無関係に構成された問題構成に押し付けようとする試み>のことである。」132
 
<まとめ>
「合理的再構成は、われわれ現代の哲学者が自分の問題を考え抜くのに必要である。歴史的再構成は、これらの問題が祖先にはみえていなかったことを明らかにし、それによって、それらが歴史の産物であることを思い出させるのに、必要である。精神史は、<それらの問題に気づいたという点で、我々は祖先よりも、よりよい状態にある>ということを正当化するのに必要である。もちろん、どのような哲学史の本も、これら三つのジャンルが交じり合っているであろう。」143
 
5、哲学史よりも広範なジャンルとしての「知の歴史」が考えられる。
「知の歴史は、ある時代に知識人がなしえたことに関する記述と、彼らと社会の他の部分との間の相互作用に関する記述――つまり、大抵の場合、(どの知識人がどういう種類の活動をおこなっていたか)という問いを括弧にいれるような記述からなる。」144
 
B 拙著『ドイツ観念論の実践哲学研究』での方法論
 
 拙著の「まえがき」より引用。
本書での研究方法を一言で表現するならば、「論理的再構成」ということになるだろう。我々がある古典的著作を読むとき、そのすべてに同意できるということはほとんどありえないだろう。ましてや時代も文化も異なる著作の場合、基本的な前提そのものを受け入れることができないことも多い。しかし、そのような場合にその基本的な主張を受け入れ、その枠組みの中で可能になるある問題をたて、それに対する答えを、彼の主張に依拠しながら構成する。そうして、問いと答えをその思想の中で論理的に再構成するのである。その問いは、場合によっては、当の哲学者自身が立てていなかった問いであってもかまわない。そのとき、当の思想に依拠して答えを構成できれば、その問答は、彼の思想から引き出せる問答である。この方法では、当の哲学の前提や概念からそのときの問答のコンテクストにかかわらない夾雑物を取り除いて、出来るだけ論理的に明確なものに仕上げ、それらに依拠して論理的に明確な問答を再構成することが重要である。このような問答の再構成を繰り返すことによって、我々は彼の哲学を理解することができ、あるいはその中に論理の欠陥や矛盾を見つけることができ、また彼が気づいていなかった問答の可能性を引き出すこともできるだろう。もちろんこれは、思想史研究の唯一の方法ではないし、優れた方法なのでもない。この方法に欠けているのは、思想を思想史の中で捉えるという視点である。そのためには、「論理的再構成」がその材料とする、対象となる哲学の基本的な前提や概念の成立そのものについての(社会的、心理的、個人史的な説明を含めて)歴史的説明が必要である。また基本的な前提や諸概念を利用して、当の哲学者が立てた問いに対する答えを再構成するときに、単に思想内容の論理的な関係のみを顧慮するのでなく、その際にどのような要素がどうして重視され(また軽視され)ることになるのかについての歴史的な説明や、他でもなくある問いが取上げられること自体についての歴史的な説明が必要である。このような方法を「歴史的再構成」と呼ぶならば、思想史研究は最終的にはこのような方法を採用すべきであろう。ただし当の哲学のもつアクチュアリティを直裁に探求しようとするときには、「論理的再構成」という手法が優れていると考える。」
    

 
付録:拙著『ドイツ観念論の実践哲学研究』(弘文堂)「まえがき」
 実践哲学における、意志の自由、道徳の基礎付け、他者の承認という基礎的な問題について、カント、フィヒテ、ヘーゲルの主張を吟味し、その可能性を探ることが本書の目的である。
 我々がここで問題にしたいのは、人間の意志が実際に自由であるかどうかという問題ではなくて、むしろそもそも意志が自由であるとはどういうことなのか、この概念はそもそも整合的に考えることのできる概念なのかどうか、ということである。自由という概念は、考えれば考えるほどわけのわからない概念である。アウグスチヌスは、時間について、それがなんであるかは自明だが、それを考えようとすると判らなくなるといったが、このことは、自由についても当てはまるようにおもわれる。本書の意図は、カント、フィヒテ、ヘーゲルにおける「自由」概念を検討することによって、彼らの議論の可能性を検討することにあるが、他方では、「自由」概念を整合的に理解しようとする際の困難を出来るだけ明晰判明に示すということにある。
 現代の我々が自由や道徳について考えるときの基本的な思考の枠組みは、カントの道徳論の影響を強く受けている。そのことは、我々が自由や道徳に考えようとするときに出会う様々なアポリアが、いわばカント的なパラダイムに起因しているということを意味している。そのパラダイムとは、「自由」を個人の理性や意志の能力と考え、道徳をそのような意志の決定やそれにもとづく行為の規範として考える立場である。つまり、個人主義的なパラダイム、(現代の共同体論者が批判的に用いる言葉でいえば)「負荷なき自我」を想定する実践哲学である。これに対して、フィヒテやヘーゲルの実践哲学は、このような個人主義的なパラダイムへの批判を意図するものであった。フィヒテは、実在論に対して人間の自由を擁護するものとしてカントの観念論を高く評価するが、カントが単に定言命法を「理性の事実」とみなして考察をとどめるところで、さらにその発生の根拠を説明しようとするのである。フィヒテは、自己意識の成立条件を探ることによって、他我との関係が自己意識や道徳意識の存立条件になっていることを証明するのである。こうしてフィヒテは、西欧思想史においてはじめて、他者論を哲学の重要な一分野として確立したのである。これに対して、我と汝という対他関係を越えて、その背後にある共同体との関係の重要性に気づき、共同体論が哲学の基本的な問題であることを指摘したのはヘーゲルであると言えるだろう。というのも、ヘーゲルにとって、共同体をどのようにとらえるかという問題は、単に政治論や国家論の問題にとどまらず、存在論や認識論の根本問題でもあったからである。ここで簡単に、本書の内容を説明しておきたい。
 第一部「カントの自由論のアポリア」では、カントの「格率」概念が深刻なアポリアを招くことを説明し、カントがそれをどのように解決しようとしていたかを検討する。そのアポリアとは、意志決定がつねに「格率」(意志決定の主観的な原則)に従っておこなわれるのだとすると、ある格率を採用する意志決定は、さらに別の格率を前提し、その別の格率の採用についてはさらに別の格率を前提する、・・・という無限遡行に陥るというアポリアである。また「触発」概念の曖昧さ、「定言命法」の採用の基礎付に関するアポリアなどを指摘し、分析した。
 第二部「実践哲学におけるフィヒテの三つのアイデア」では、フィヒテが、実践哲学に関して、重要な三つのアイデアを提示し、それにもとづいて当時としては非常に独創的な議論を展開していることを説明するともに、その論証が成功しているかどうかを検証した。その三つのアイデアとは、次のようなものである。
  第一のアイデア:自己意識の成立条件として道徳意識、規範意識を演繹しようとしたこと。
(道徳の基礎づけのアポリアを解決しようとするもの)
これは、自己意識の存立構造の分析を進めることによって、自我が自己を意識することは、自己を自発的であるべきものとして意識するという仕方でしか成立しないことを論証し、それによって、我々が自己意識を持つ限りは、つねに自発的であるべし、という道徳意識をもたざるをえないとこを証明したものである。これは、現代風にいえば、道徳の超越論的証明になっている。これを「第1章 道徳の超越論的論証」で扱う。 
 第二のアイデア:自己意識の成立条件として、他者からの促しを演繹しようとしたこと。
                 (他者認識のアポリアを解決しようとするもの)
これは、自己意識の存立構造の分析を進めることによって、自己意識が成立するには、他者からの「自発的であれ」という「促し」が不可欠であることを論証したものである。フィヒテは、西洋哲学史において他者の存在問題にはじめて真剣に取り組んだ思想家であると同時に、彼は既に他者論自我の存在論的条件として他者を演繹するという。非常に根源的な他者論を展開していた。これを「第2章 「促し」理論による他者論のアポリアの解決」で扱う。
  第三のアイデア:自由を認める決断の語用論的必然性を示したこと。
         (自由の証明のアポリアを解決しようとするもの)
意志の自由を認めるか決定論を認めるかという問題は、フィヒテにとっては、観念論をとるか実在論を取るかという問題でもあった。この問題について、前期のフィヒテは個々人の決断にゆだねた。ところが、後期への転換において、フィヒテは、自由論を取るか決定論をとるかの問題が、決断にゆだねられるということは、自由論を採用しているということであって、この問題について、決断主義をとらざるをえないということは、我々が自由論を採用せざるを得ないということである、という立場に立つことになる。しかし、決断主義を取らざるを得ない、というここでの議論は、決断の重要性をみとめつつも、決断がつねに「促し」を前提するということを示している。つまり、我々はここから決断主義への批判を展開することができる。(ただし、これは、私のフィヒテ解釈であって、フィヒテが明言していることではない。)我々は、少なくともこのような自由の論証(これもまた一種の超越論的論証である)や決断主義批判をフィヒテの後期への移行期に読みとることができる。「附論一」では、フィヒテの「世界」概念の展開を追いつつ、前期から後期へのフィヒテの変化の内容とその必然性を論じた。「附論二」では、紹介されることの少ない、フィヒテの国家契約論の論理構造を説明し、それについて吟味することによって、それが第一章、第二章で見てきた、自己意識の構造と類比関係にあることを示したものである。
 第三部「ヘーゲル自由論と相互承認論」の第一章では、ヘーゲルがカントとフィヒテの自由論を「選択の自由」と捉えて批判する論点、およびそれを踏まえて彼が主張する独自の自由論を吟味した。ヘーゲルによる「選択の自由」の批判とは、選択する「決断」への批判であり、決断がつねに他者との関係を前提しているという決断主義批判になる。これに対して、ヘーゲルが、積極的に主張する「自由」概念は、共同体の中での相互承認関係である。そこで第二章では、ヘーゲルの相互承認論を分析し、彼の自由論についてのより精確な理解をめざした。その際に、我々が注目したのは相互知識という現代のコミュニケーション理論の概念である。これによってヘーゲルが把握しようとしていた「思弁的」な事柄をより精確に理解することが可能になったと思われる。このようなヘーゲル解釈において重要なものとなる「エレメント」概念が重要なものになる。「附論一」は、『精神現象学』の知の吟味の方法を「エレメント」概念に注目して解釈を試みたものである。「附論二」は、『精神現象学』の弁証法を「エレメント」の展開の論理として解釈するときに、「無限判断」を古いエレメントから新しいエレメントへの転換の論理として捉えることが出来ることを示したものである。「附論三」は、この「無限判断」を「アンチノミーを前提とする推論」として解釈し、また「アンチノミーはダブルバインドである」と理解することによって、弁証法の論理を分析したものである。
 本書での研究方法を一言で表現するならば、「論理的再構成」ということになるだろう。我々がある古典的著作を読むとき、そのすべてに同意できるということはほとんどありえないだろう。ましてや時代も文化も異なる著作の場合、基本的な前提そのものを受け入れることができないことも多い。しかし、そのような場合にその基本的な主張を受け入れ、その枠組みの中で可能になるある問題をたて、それに対する答えを、彼の主張に依拠しながら構成する。そうして、問いと答えをその思想の中で論理的に再構成するのである。その問いは、場合によっては、当の哲学者自身が立てていなかった問いであってもかまわない。そのとき、当の思想に依拠して答えを構成できれば、その問答は、彼の思想から引き出せる問答である。この方法では、当の哲学の前提や概念からそのときの問答のコンテクストにかかわらない夾雑物を取り除いて、出来るだけ論理的に明確なものに仕上げ、それらに依拠して論理的に明確な問答を再構成することが重要である。このような問答の再構成を繰り返すことによって、我々は彼の哲学を理解することができ、あるいはその中に論理の欠陥や矛盾を見つけることができ、また彼が気づいていなかった問答の可能性を引き出すこともできるだろう。もちろんこれは、思想史研究の唯一の方法ではないし、優れた方法なのでもない。この方法に欠けているのは、思想を思想史の中で捉えるという視点である。そのためには、「論理的再構成」がその材料とする、対象となる哲学の基本的な前提や概念の成立そのものについての(社会的、心理的、個人史的な説明を含めて)歴史的説明が必要である。また基本的な前提や諸概念を利用して、当の哲学者が立てた問いに対する答えを再構成するときに、単に思想内容の論理的な関係のみを顧慮するのでなく、その際にどのような要素がどうして重視され(また軽視され)ることになるのかについての歴史的な説明や、他でもなくある問いが取上げられること自体についての歴史的な説明が必要である。このような方法を「歴史的再構成」と呼ぶならば、思想史研究は最終的にはこのような方法を採用すべきであろう。ただし当の哲学のもつアクチュアリティを直裁に探求しようとするときには、「論理的再構成」という手法が優れていると考える。
 二十世紀初頭の論理学の発展とそれに結びついた言語哲学の登場によって、理論哲学の分野では、現代の議論はドイツ観念論からすでに遠く隔たっているように思われるが、実践哲学に関しては、我々はまだドイツ観念論とおなじ水準(概念枠組み)にあるように思われる。ヘーゲルが見抜いていたとおり、その当時出現した<市民社会>が、ドイツ観念論の自由論の誕生の背景であったのだが、その市民社会が基本的に現在まで続いているからである。無論、ドイツ観念論の時代とは社会状況が異なり、彼らの国家や社会についての議論がそのまま妥当する時代ではないが、自由や道徳や法など基礎的な概念の枠組みは、今も生きている。しかし、これからはそれらの再考が必要になるだろう。現在、国家も市民社会もグローバリズムによって大きく変化する兆しを見せている。それにともない、我々は、自由主義と共同体論の論争に見られるように、自由をめぐる様々な問題に直面している。我々は、これまでの実践哲学の基本的な概念や枠組みをあらためて考え直すことを求められている。現代哲学では、とりわけ構造主義以降、個人主義的な近代的主体がフィクションであったということは常識になっている。しかし、それに代わるはずの「システム」や「コミュニケーション」などの概念に依拠する理論は、まだ生成途上にある。このような時期に、現代的な問題意識でドイツ観念論の実践哲学を読み直してみると、そこに様々な理論的な可能性やアイデアを発見することができる。一つの里程標としての彼らの到達点をはっきりとさせ、我々がそこから一歩踏み出すためのスプリングボードを提供すること、これが本書の意図である。はたして本書がそのような大それた意図をほんの少しでも実現し得ているかどうかは、江湖の判断に委ねたい。」